自転車と我が人生

リレートーク「眞木 宏哉さん」

「自転車」くらい付き合いの長い乗り物はない。幼い頃からの深い付き合いなのだ。

ごく小さな頃は自転車のハンドル手前に取り付けたちっぽけな藤椅子に座って親の外出のお供をした。そして学校へ上がる頃になると自分で乗りこなせるようになる。あの頃、子供用自転車などは贅沢品だったから、大人の重い実用車に跨って随分遠くまで出掛けたものだ。「跨って」は正確でない。子供特有の乗り方があったのだ。それは「三角乗り」。あの三角形をなすフレームの中に右足を突っ込みヨイショヨイショと必死にペダルを漕ぐという走行スタイルであった。よくもあのようなアクロバット風な乗り方が出来たものだと今思うが、当時の子供たちは皆そうしていた。そんな奇妙な格好で普段は行くこともない遠方まで出かけたものだ。

やがて三角乗りを卒業する頃には、峠を越え、村境の向こうの町へ祭りや映画を見にでかけるようになる。山の少年は、往路は下りで快適なのだが、帰りは登り一方、坂道で重い自転車を担ぐようにして引っ張り上げたものだ。でも遠くの町へ行けるという胸のトキメキは、そんな苦労をモノともしなかった。

やがて時は経て、そんな自転車との関係も中断する。私も人並みに町の高校へ進学、大都会での大学生活と職業選択、これとあい俟ってのモータリゼイションの到来そして自家用自動車の所有へと歩む。まさに日本経済の成長過程とパラレルに、人生の扉を1枚1枚と開けて、何時の間にか六十路・前期高齢期をむかえてしまったというわけだ。この間は「自転車」は移動手段として使われることもないばかりか、興味・関心の対象ともならず、庭や倉庫の片隅へ追いやられていた。少年時代のあの自転車の存在感は何処にも見当たらず、遥か昔の回想劇の小道具にしか過ぎなかった。

しかし昨年春以来この状態に大変化が起きてきた。

自転車と私の関係の革命的変化、というよりは自転車の再発見が始まったのである。

そのきっかけは、その前の冬から始まった腰痛である。脚・腰が痺れ・痛んで10mも歩けない。手術を施しても治癒の確率必ずしも高いとは言えず、かといって放置しておけば「垂れ流し」も覚悟すべしというかなりドギツイ宣告を受けたのである。名付けて「脊柱管狭窄症」。

これには常日頃鈍感な私もショックであった。我が人生の第三フェーズを先祖伝来の林業に投入すべく山林管理の見習いのスタートに大張り切りで立ち上がったその矢先のことだったから。間伐など森林作業には腰の故障は致命症となる。

其の儘の病状進行は絶対オモシロクないので洋の東西を問わず医学的療法にあずかり今もそれを続けている。だがここで颯爽と登場したのが自転車なのだ。自転車スポーツとかバイク(モーターバイクにあらず)スポーツというのが正確だろう。

耳よりな話しを聞いたのである。腰部故障の治療には、足腰の運動を支える筋力強化が有効だ。そのためには、足腰への荷重の軽い全身運動=水中歩行か自転車スポーツが最適であるとの見解であった。

「や!しめたぞ」と叫んだのは山仕事の夢を捨てきれない私であった。よーし、筋力を鍛えて脊柱管狭窄症をドゲンカセントイカンとばかりに付き合い始めたのが自転車スポーツだ。自転車はプールと違い、身近に置いて何時でも乗れるので、私のようなものぐさにも便利なジャンルである。

最初に購入したのは、スーパーで見つけたママチャリだ。姿形も軽快な買い物籠付きのシルバー色に輝く自転車。価格も1万円台と格安。半年間懸命に乗って、

自転車生活の長い空白を埋めることができた。

再開した自転車との関係は、移動手段ではなく健康回復・身体造りという新たな目標を背負うものだ。この試みはかなりの成果を挙げたばかりか宿年の課題である減量にも大いに役立った。

だが私の自転車生活はもう次ぎのステップへと変わりつつある。例えば延長六㎞、比高300mというような山の坂道やダートな林道への挑戦はママチャリではちょいと無理があったのだ。膝が痛くなって楽しくない。このため、今は、より軽く・速く・堅牢なUSA製のクロスバイクを手に入れてしまい(退職以来最高額の買い物だった)、腰痛の小康状態に感謝し、この有難さを持続させるべく、山之辺の道や農道をいい汗をかきつつ毎朝夕に快走しているところだ。次のような自転車生活の魅力を再発見しながら。

足腰と心肺によく、肥満を防ぐ/エネルギー資源を使わず、廃棄物を出さない/お金がかからない。

NPO法人 風舎

石窯でピザ焼き体験。川遊び。ワークショップ(ミツバチの巣箱づくりなど)、自然に触れながら交流を深めるNPOです。くらがり渓谷キャンプ場のすぐ近く、手作り家具と石窯づくりの工房内に事務局があります。